Staff interview #13 渡辺 雅之 / Masayuki Watanabe

学びはもっと自由になっていく

僕たちが取り組んでいる領域は「学び」です。これからの学びはどんどん自由になっていくと考えています。そうですね、おそらく10年たって振り返ってみたら、まったく別の形になっているんじゃないでしょうか。

 

自由になるって言ったとき、じゃあ今は一体何が不自由なのか、ということですが、これが案外、なかなか僕たち自身で気づくのは難しい問いです。

僕たちは、ごく当たり前に小さい頃から、それぞれの社会で規定された「学び」を義務として受けてきました。

 

でも、考えてみると、僕たちが、学校で経験してきた「学び」は、人生のごく初期に、決められた年齢から一斉に開始され、決められた期間、全員が朝から晩まで同じ空間に勢ぞろいし、一律に決められた進度で決められた内容を、目の前の同じ教師から授業という形で文字通り「授かる」というものです。教科の区切りもカリキュラムも、政府が決めた標準的なものがあって、主に暗記や解法の訓練を徹底的に受ける。

 

そして、その達成度合いによって、行くことのできる大学、就くことのできる職業、さらには生涯年収にまで関係してきたりする。だからこそ、親も、本人も、周りの人も、必死に勉強しろ、という。

 

これ、考えてみると、なかなかシュールなシステムじゃないでしょうか。

 

一か所で同じ加工を施す工場で、ものを大量に作るかのようなことが、教育の現場で1000年以上も続いてきているのです。古代中国に科挙という制度がありましたが、長い間ほとんど変わらない形で踏襲しているのです。なぜか。それは、それが出来得る範囲でもっとも効率が良い仕組みだったからです。

 

では誰にとっての効率でしょうか。それは為政者であり、社会そのものにとってです。秩序を守り、有形無形の社会インフラを整備するための税収を稼ぎだす原動力は、素直によく働く、事務作業の習得や暗記に長けた労働者であったから。そして、少なくても、長い間、効率という立場に立ったとき、それが正しいアプローチだったと僕も思います。

 

だけど、まさに今、インターネットやAIをはじめとする技術革新で、社会構造や価値観そのものが変化しようとしています。当然、それに伴って、学びも劇的に変化していきます。社会や価値観が変われば幸せの定義も変わるし、人は皆、自分や子どもに幸せになって欲しいから、そのために選択する学びを変えていく。学びが変わるから社会が変わるのではなく、その逆で、社会や価値観が変わるから、学びも変わっていくのだと思います。ここ、重要なポイントです。

 

そもそも、基礎教育として、社会の一員になるための基本ルールや共通認識は学ばなければいけませんが、それはせいぜい仮に今の授業時間を10としたら、その1〜2割で十分ではないかと思います。残り8割以上は、自分のやりたいことや、必要だと思うことを、自分のタイミングで自由に学べた方がいい。あるいは、未来の社会や新しい価値観において鍛えるべきは、暗記や解法や理解ではなく、もっとアートや態度や多様性みたいなものかもしれません。すごく先を見過ぎちゃうと、あるいはディテールの議論をし始めると、宗教論争みたいになってしまいますが、大きな方向は間違いなくこうなると思っています。

 

新しい学びを実現するのに、もちろんテクノロジーは必須です。だってテクノロジーによって社会や価値観が変わるときに、それに付随する教育は無関係なんてことがある訳ないじゃないですか。

 

すでにスタディサプリやQuipperがやっているように、質が極めて高い授業を個別配信したり、習得プロセスを個人ごとにカスタマイズしたり、あるいは、メタ認知力を育てるためのコーチングを多対多で提供できたりするのは、どれもテクノロジーの力によって可能になったことです。

 

ちょっと前まで、僕は、どちらかというと、目から鱗のイノベーティブな全く新しいメソッドで一気に教育市場を席捲するというか、世界を変えることができるんじゃないかと思っていましたが、最近は、意見を変え、そうは思わなくなりました。

 

そうではなく、人が人に教えるということ、そして人が人を導くということ、の構造というか成り立ちは本質的に変えようがなくて、教える、導くという行為を精査し、肝となるポイントを見極め、そのポイントをより高いレベルで実現するためにテクノロジーを使って、サービスを組み立てるのが、唯一の道だと今は考えています。


Masa's Lecture at ISAK, photo by Dean Kirkness

ボトムアップで進める学びの革命

10年後には、教育は大きく変わっていると思います。歴史で習った市民革命みたいに今年、あるいは来年の特定の日に何かが起きて、すべてが一挙に変わるというわけではありません。さっき述べたように、教育領域における革命は、社会の変化に適合し、1020年というタイムスケールで次第に変わっていくものです。

 

どんなカリキュラムや授業が子どもあるいは大人にふさわしいのか、アセスメントは適切か、一つひとつ検証しながら進めるべきでもあります。公教育の場合は誤った方向に向かった場合、ほかの選択肢がなくなって取り返しがつかないことになりかねない。現場で子どもたちと接しながら、議論を重ねてボトムアップで築いていくことが必要な側面も大きいでしょう。

 

民間セクターなら市場の原理でおかしなものは使われなくなるだけなので、自由度は比較的高いですが、とはいっても扱っているのが教育だけに、無責任なことはできません。

 

 

でも、そうこう格闘しているうちに、気づけば、「10年前の教育のあり方とはずいぶん変わったね」と話しているようになる。

 

世の中の本当の変わり方とは、往々にしてそういうものです。インターネットのことを考えてみてください。今から20年前の1998年はまだ黎明期。現在の目からすれば信じられないくらい遅くて不安定な通信で、こんな通信で世界が変わるなんて、ごく一部の人を除いて誰も思っていなかった。そこから徐々に環境整備が進み、ネット・サービスが増えていき、ある時から、完全になくてはならないツールになり、社会が本当に大きく変わった。

 

もし20年前に国家が介入して「今日から紙でデータをやり取りするのは禁止」などと言って無理やりある日インターネットを導入するようなやり方では、こんな多様な広がりは出なかったはず。教育だって同じです。トップダウンで一気に変えるより、一歩ずつ皆で進むほうがきっと変化は大きくなる。

教育領域の未来をつくる者に

20年前に現在の社会を完全に見通せた人はいないと思いますが、インターネットはこう使われるべきだとか、こういうサービスが世の中をよくするはずだといった構想や夢を持った人はいました。Amazonの創業者ジェフ・ベゾス、Google創立者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンらなどもそう思っていたはずです。

 

同じように、10年前、Facebookのマーク・ザッカーバーグは明らかに新しいコミュニケションがもたらす価値とその結果、社会が向かう方向が見えていたはずです。

 

彼らのように、未来の理想像すなわちビジョンを打ち立てて、周りを巻き込みながら旗を振り、社会の変化を共に、あるいは変化自体を創造するような人が、実際に社会を変えます。そして教育の領域では、僕たちがそういう存在を目指したい。

 

教育でこう変わればいいという方向性として僕が個人的に思うのは、もっと適当で、フェアな世界になればいうことですね。誰もがやりたいことに自由にトライできて、仮にそれがうまくいかなかったとしても非難されたりしない。受験に失敗したら終わった気持ちになるとか、新卒就職先でだいたいの生涯年収が決まるとか、そういう神経質で杓子定規な価値観に縛られ、脱落した人は白い目で見られるようなことはなくなって欲しい。

 

皆がそんな価値観になっていけば、本来の意味での学びというものが、さらに大切な要素になる。だって、いつだって学べば好きなことに挑戦できるんだから。

 

受験で読解力が問われるから鍛えましょうというよりも、「どうしたら自分の人生を豊かに幸せに送ることできるか」を自分の頭で考えて、そのために必要な学びを納得感もって自分で進めていくことができる人が増えれば、もっと気楽で楽しい感じになると思います。

 

ただ、歩を進めるにあたっては、僕たちがひとりよがりで、目の前のユーザーの役に立たないサービスをいきって提供しても意味がありません。その思いを胸に抱きつつ、生徒や両親、先生が今まさに直面している、現在の受験制度にも、偏差値にも、しっかり向き合わなければならない。それが現存する課題なのだから。一歩一歩だと思うし、それが、結局、近道になると思います。

 

Googleは現在いろんなサービスを提供していますが、20年前から持つ完璧かつ壮大な計画を満を持して実現したというわけではありません。

 

最初はすごくシンプルな検索エンジンで、それがよく使われることで再投資が可能になり、その使われ方を見ながら、サービスを変更したり加えたり、外したり、また加えたり、ということを繰り返して今の全体像になっているわけです。今目の前にいるユーザーに使われながら進化していき、最終的にビジョンを実現するという意識が必要なのだと思います。

 

特に教育事業はタイムスパンが長いものです。ユーザーも1年ごとに入れ替わっていく。なかなか変わらないし、積みあがらない。あるべき姿までの距離が遠い。理想との差を否定するのは簡単ですが、ここは長距離走のような発想が必要です。

大きな市場があり、僕たちはいいものをつくっている。ビジネス的成長はもちろん可能だ

ビジネス面のことを考えると、教育事業はややもするとボランティア的になって収益性を度外視する傾向があります。公教育は無料ですし。

 

でも、ボランティア的な動きをしたり、公の資金を入れたりすると、とたんに政治的な調整機能に巻き込まれてしまう。自分たちなりの未来像を見据え、ユーザーに寄り添うことを考えるならば、ちゃんと経済的に独立していることは絶対条件です。

 

政策の動向や誰かの思惑に悪い意味で巻き込まれてしまうのは、教育を手がけていくうえで絶対にしてはいけないこと。事業が長期にわたるからこそ、周りに振り回されない自立したお財布を持つことが大事です。教育事業には大きな市場が存在しており、僕たちは強いチームで、本当に良いものをつくろうとしているのだから、ビジネスとしての成長だってもちろん可能なのです。

 

いいサービスをつくるにはコストがかかるものです。実際、僕たちも投資をかなり続けてきました。しかし、教育分野の市場規模は、世界で200兆円とも言われています。どの国の政府も、子どもの教育を最重要課題とみなしていますし、親や本人にとっても、もちろん同じです。対象市場はそもそも、とんでもなく大きいのです。少子化が進む日本では一見、規模が縮小していくように思えますが、生涯学習だったり、仕事と結びついた教育などを含めれば、やはり市場は、まだまだ大きくなります。僕たちは強いチームで、善意をもって本当に良いものをつくろうとしているのだから、ビジネスとしての成長だってもちろん可能に決まっています。

「Distributors of Wisdom」の「s」のこと

Distributors of Wisdom」というビジョンについて改めて言及しておくと、これをつくったときの主旨としては、知恵や知識は先生から生徒へ一方通行に分け与えられるものではないとの思いがありました。知は、もっとダイナミックに流通した方がいい。プロに限らず、誰でも教え、教えられ、ちょっと知りたい時には、知のありかからうまく引き出したり、知ったらここにしまって、同じことを知りたい人の参考にする。もっと流動性高く、知がやりとりされる世界をイメージしていました。テクノロジーを使えば、そうした流れがぐんと自由になる。物流でいうところの「流通革命」を、知の分野でも起こしたいと思ったのです。

 

Distributors」と「s」を付けているのは、僕たちは知の流通革命をチームとして推進するという意思の表れです。Quipperという器は常にそれを目指しているチームであり続けるという思いを込めています。

 

 僕たちは、大変だけど、意義深く、面白いことをしているんだから、楽しまないと。





2018/9/28
※記事中で紹介した事業(名称や内容含む)や人物及び肩書については取材当時のものであり、現時点で異なる可能性がございます。

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